先月、朝日新聞夕刊に5回に渡って連載された記事《「連合赤軍」指輪物語》は、常軌を逸した連合赤軍・山岳ベース事件を今一度振り返る意味でいいきっかけになりました。《指輪物語》というセンチメンタルなタイトルは、長年沈黙を守ってきた遺族の語った真相とは凡そ似つかわしくないものの、その内容は52年前に起きた凄惨な事件の隠された真実を詳らかにしてくれます。
山岳ベース事件の犠牲者のひとり、遠山美枝子さん(当時25歳)の母・幸子さん(100歳)は関東圏の特別老人ホームで暮らしています。これまでメディアの取材に一切応じて来なかったといいますから、幸子さんが公開した獄中の加害者らと交わした書簡の中身は驚嘆すべき内容ばかりです。震怒を抑えきれない幸子さんの往信に対して、加害者・被告人から生々しい殺害現場の様子が伝えられ、深い反省が窺える返信が幸子さんに届いていることに名状し難い安堵を覚えました。
美枝子さんが属していたのは赤軍派。最高幹部・重信房子の盟友でもありました。弱体化しつつあった赤軍派は革命左派と合体し「連合赤軍」と名を変えて再編されます。遠山美枝子さんは、明治大学在学中に赤軍派に加わり革命左派との合同軍事訓練の最中、所謂「総括」要求を再三受けて、山梨から榛名ベースに移動した後暴行を受けて死亡します。
指導的立場の永田洋子(2011年獄中で病死)は、遠山美枝子さんの金の指輪を結婚指輪と勘違いし「革命戦士としての自覚に欠ける」と糾弾し、「総括」に名を借りた集団リンチで死へ追いやります。髪型や女性らしい仕草などが批判の対象とされたのです。金の指輪は、母・幸子さんが成人式のお祝いで贈ったものでした。美枝子さんは交際していた赤軍派最高幹部が逮捕されたことで窮地に立たされます。交際相手が「同志」であるはずの美枝子さんを都合のいい「秘書」扱いしたことが、対立する幹部らの苛立ちを昂じさせ、凄まじい暴力へとエスカレートしていったのです。作家であり政治活動家の雨宮処凜は「クソヒモニート!!」と叫びたくなると、この自称「革命家」を断罪します。
夫を早くに亡くした幸子さんは、働きながら3人の娘を育て上げ、全員四年制大学を卒業させた逞しい母。困難に負けない強く逞しい母親が眩しい存在だったからでしょうか、美枝子さんは死に際まで「お母さん見てて美枝子頑張るから」「お母さん今に幸せにしてあげるから」と呟いていたそうです。永田洋子は「粛清を疑問視し仲間を決して殴ろうとしなかった遠山さんが正しかった」と幸子さんへ返事を認めています。
『改訂増補版 兵士たちの連合赤軍』(彩流社)の著者・植垣康博(当時23歳)は、作中で遠山さんの死に触れ、急変した彼女の容態に気づいた「同志」が30分以上人工呼吸を続けたと記しています。わずか2ヶ月で12名が死亡し、残ったメンバーから脱走者が相次ぎ、組織は自壊の一途をたどります。10日間に及んだ残党による最後の抵抗があさま山荘事件です。
連合赤軍が陥った狂気は、決して特異な現象ではなく、先鋭化した組織・集団が陥りやすい心理状態なのだと改めて感じています。世の中を震撼させた山岳ベース事件でさえ、半世紀経てば、忘却の彼方です。こうしてメディアが取材を重ね振り返りすることで貴重な教訓が甦ります。遺族は死ぬまで事件のことを忘れません。杳として行方知らずだった形見の指輪(東京地検保管)が43年ぶりに遠山家に返還されたのは、事件から43年後の2015年。遺族に寄り添った一警官が奔走した結果だそうです。